先に出す人たち 下書き #16
| レンズ(読み) | 小さなトップダウンによるボトムアップらしさ |
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| 主題 | 僕が西湘で立ち会った、米や畑、部屋、会館、金、手間、住まいが先に差し出され、そのあとに人の手や声が集まった場面を、意味づけずに並べるルポルタージュ。 |
| 状態 | 下書き · v6 · by steward-auto-d55 · 2026-07-20 06:46 下書き 4/5 章 |
| 不足取材リスト |
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「やりたい」を、実際にできるところまで。
大磯と国府津を歩いていると、畑や会館、お寺、空き家で、誰かが持っているものを少しずつ出している場面に出会う。米を出す人、やり方を教える人、技術を持ち寄る人、お金を次へ渡す人。きっちりした契約や報酬がなくても、場所は動き、人が集まり、次の何かが始まっていく。これは「助け合い」という立派な話ではなく、この町でいつの間にか続いている、場所と技術とお金のまわり方についての記録です。
台町に住む人が、フリーマーケットをやりたいと言い出したことがあった。ただ、台町会館の借り方も、場所の取り方も分からない。しょっちゅう会館に出入りしている佐々木さんには、そのノウハウがある。それで手伝って、十月に開いた。出店は基本的に台町の住民だ。来年もやるかは決まっていない。
会館は地元利用なら無料で借りられる。町内会から予算は出るが、人件費には使わない。手伝った人に出るのは冷たい飲み物くらいだ。
佐々木さんは大農のリーダーということになっている。生まれも育ちも台町で、出張のドッグトレーナーをしている。地元歴が長く、いつの間にかそう呼ばれるようになった。ただ本人は「リーダーだから発言権・決定権があるわけではない」と言う。大農では複数の企画が自然発生的に立ち上がって、それぞれ勝手に進む。佐々木さんがやっているのは、まとめることではなく拾うことだ。誰かが「やりたい」と言う。それを聞いて、いるなら手伝ってみよう、という形で実現に回る。最後にやるのは言い出した本人で、佐々木さんではない。
六月の第三日曜、僕はその大農の花畑にいた。
もともと耕作放棄地だ。広い土地に草が生えては刈られを繰り返していた。猪が降りてきて梅や栗やみかんをやられるので、実のなるものではなく花にした。朝の九時から十二時まで作業をする。子供は遊び、大人が畑をやる。花の種は大島さんが用意したものを植える。大島さんは台町の在住ではないが、お花畑のアドバイザーとして参加している。誰かがタバコに火をつけて、僕も一緒に休憩した。
十二時過ぎに解散して、大磯市で再集合した。大磯港でひらく市で、畑の作業日は毎月それに合わせてある。畑作業のあとの楽しみだという。大島さん一家と枝豆とアジフライとビールを買った。出店の多くは茅ケ崎や秦野など大磯の外から来た店で、どこも盛況だった。列の一番奥ではやっほーがビールと子ども食堂券を売っていて、人が来ないので客引きをしていた。
大農は町内会よりラフなコミュニティとして、コロナ禍のなかで作られた。名簿も会計も役員もない。LINE のグループに三十人ほどがいて、実際に何かを企画して動くのは十人ほどだ。町内会から切り離された別組織ではない。町内会の中で知り合った人同士のつながりから発生して、そこからはみ出したものだという。
写真祭を企画したのは小柴さんの旦那さんだ。広告の会社に勤めながら写真を撮る人で、もともと大磯町が主催していた文化事業を盛り上げたいと言って立ち上げ、町から助成金も取ってきた。「助成金をとるのとか仕事柄得意だからって率先してくれる人なんだよね」とペータさんは言う。そして普段から世話になっているから自分もできることで返したいと思って、お花畑を手伝っているのだと続けた。
十二月には餅つきがある。僕は小柴さん経由で「叩く人がいないから来て」と呼ばれ、よそ者として潜り込んだ。名人が中心で杵を振り、返し手の女性たちが鏡餅を作っていく。僕も初挑戦して、下手くそだと交代させられた。餅とそばは無料で振る舞われ、費用は大農が持つ。帰りに餅を二個持たされた。会長からは「若手頑張って」と声がかかり、七月と九月の祭りにも手伝いに来てと誘われた。
その日、こういう話が出た。町内会にもともとある行事と、新しい自主企画を認めてくれる仕組みが混ざっている。守るだけだと「仕事」になってしまうから、仕事を遊びにする。写真家の仲間が休みの日や芸術祭に写真や広報の職能と時間を地域へ出すのは、お金と仕事の交換ではない。純粋な表現と、仲間と遊ぶ時間を取り戻すためだ。会社で仕事として使っている技術が、ここでは別の目的に使われている。その切り替えに、摩擦がない。
逐語引用候補(1)
秋の午後、東光院で古井さんに聞きました。
東光院は大磯の下町にある古い寺だ。北下町、浜の町の道祖神の地域に入る。山門をくぐると正面に本堂がある。大磯を歩いて話を聞いていると、この寺の名前が何度も出てくる。僕は前に一度、うつわの日で訪れたことがあった。
地下がフリースペースになっていて、中学生が四人で遊んでいた。本棚には医療や福祉に関係する本が多い。寺の隣には寺が借りている一軒家があって、改装して公開されている食堂になっている。小学生から高校生までが出入りしていた。多世代食堂おむすびといって、週に三回、みんなで晩御飯を作ってみんなで食べる。運営は寄附で成り立っていて、食材もみんなの寄附だけを使う。大口は月に二十万円を寄付してくれる横浜の人だという。
五月の夕方、副住職の古井さんに話を聞いた。靴を脱いで上がると、畳の匂いがした。線香の煙が天井に向かって細くのぼっていく。
古井さんはもともと東京でデザイン会社をやっていた。信濃町に事務所を構えて、そこでアルバイトに雇っていたのが、東京工芸大学で写真を学んでいた学生だ。その学生が大学を出て実家のこの寺を継ぐとき、一緒に僧侶をやらないかと誘われた。このままだと寺は間違いなく潰れちゃうから、手伝ってほしい。そう言われて決めたのだという。いまその学生が住職で、古井さんが副住職だ。寺のフリーペーパーは、そのころのデザインの技能でつくられている。
古井さんはこう話した。「あなたから30 万円いただくかもしれないけど、その30 万円は別の人に吐き出すことだってあります」。お寺に入ったお金は、お寺に溜まらない。必要としている誰かの方に流れていく。通過するのだ。葬儀も、納棺も、お経を読む以外の仕事も引き受けるが、お代は決めていない。
「昔だったら隣近所の人がしょうがね俺がやってやるよって言ってたものが、選択肢全部サービス化されてお金が介在するようになっている」。古井さんはゆっくり話す。かつて近所の人が「しょうがねえ」と引き受けていた雑事⸺屋根の修理、庭木の剪定、墓の掃除⸺一つひとつが、いつの間にか業者に頼むサービスになった。サービスにはお金がかかる。お金が動くと、近所の人が引き受ける余地がなくなる。
昔は家族がいて当たり前、結婚するのが当たり前、子供が親の面倒を見るのが当たり前だった。そこにある程度の稼ぎと資産があるのも当たり前。でもその条件が全部揃う人は、これからの社会にはそういない。それを前提にした社会の組み立てと地域の再編をしないと、困った人が地域にあふれる。金銭だけのやり取りで人の営みを維持するのは不可能だから、自分の身を守るだけでなく、隣近所でお互いに守り合う形にしていくしかない。だから積極的に人の縁を結ぶ。
古井さんはその変化を、寺という場所から見てきた。そしてこうも言った。自分たちには役場の職員とは違う特性がひとつある。それは二十五年後も五十年後もここに居続けているということだ。いまこうして話しているのは、多分二十五年後も同じように来てもらって同じように話ができる。五十年後も同じように話ができると思う。すごく稀有な関係性だ、と。
だから相談の聞き方も違う。福祉の人や医療の人のやり取りを聞いていると、五年後のことを考えているだろうかと思うことがある。いま相談に乗っている相手の、死ぬ間際のことや、十年後のこと。そこまで見ているかというと疑問が残る。今この瞬間のアプローチとしては悪くないのかもしれないが、時間の軸を伸ばして見れば、違うやり方があるはずだ、と。
現代の寺には、ビジネスと絡めてコンサルまがいのことをやっているところもある。自分たちも最初はそういうことを考えていたけれど、活動していくうちにだんだん今のように思うようになって、ビジネスを意識しないようになった。他の寺からは、寺じゃないんじゃないかと言われる。
誰も直さない物件を、杉山さんは直しています。
国府津の通りに面した一角に、杉山さんが直した建物が点在している。駅から歩いて数分の範囲だ。杉山さんは五十二歳。五年ほど前に建築関係の会社をやめて、いまの活動を始めた。誰も手をつけない空き物件を、国府津で十二件ほど買い取っている。不動産業者が匙を投げたもの、屋根が傷んだもの、人が住まなくなって何年も経ったもの。それを自分の手で直す。壁を剥がす。床を組み直す。配管を通す。電気を引く。直した先から役割を与えていく。一軒はシェアキッチン。一軒はスタジオ。一軒はコワーキングスペース。分散した拠点には Blend という屋号がついている。拠点は国府津だけではない。隣町の曽我には、旧・小田原市曽我支所を再利用した「ソガブレンド」がある。関東大震災より前に建てられ、小田原市の登録有形文化財になっている蔵は、いまは展示と販売の場だ。商店街が来年で百年になるという銀行の建物も、改修の途中にある。宿があり、保育園があり、海沿いの木造倉庫はイベント空間になっている。全部で二十一。それを杉山さんが一人で管理している。人件費がかからないから黒字なのだという。
曽我の拠点の一角には、解体で出た材と什器が積まれている。ここにあるものは全部、これまでの現場から集まってきたものだ。Blend の物件だけではない。移住者が店を始めたいというときに物件を探したり、デザインの相談に乗ったり、大工や建築士を斡旋したりもしていて、そういう現場で出たものもここに入る。壊した家から出たものが、次に直す家の棚になる。
改修中の家の屋上に上がると、富士山と箱根の山と海が見える。寂れている町だけど盛り上げていきたい、と杉山さんは言った。ここを訪ねてくる人は、東京での生活を経験してから戻ってきた人が多い。
手伝う代わりに、ここに住みます。
僕がこの家に来たのは、住むところを探していたからだ。国府津で人を紹介してもらう相談をしていたとき、二つ提案された。ひとつは紹介の数珠つなぎでホームステイをすること。もうひとつが、杉山さんが買った駅前の古民家の改修を、住み込みで手伝うことだった。
家は国府津駅から徒歩三分にある。杉山さんが宿にするつもりで買った空き家だ。築百年ほどと聞いているが、壁は全面が石膏ボードで覆われている。
二月の初日、一月まで何もしていなくて、流石にそろそろ始めないと、と杉山さんが宣言して、その日から手をつけた。畳も障子も傷みがひどく、再利用は難しそうだった。杉山さんと相談して処分することにした。軽トラに畳を積み上げ、ロープで縛って、小田原のゴミ処分場まで運ぶ。処分費は杉山さんが払ってくれた。
解体は主に僕がやる。ときどき杉山さんが来て、やり方を教わりながら一緒に進める。ゴミ捨ては杉山さんの担当だ。小さくて狭い風呂は、相談してシャワールームにすることにした。腐った柱をどうするか分からず相談したときは、切って入れ替えるしかない、これは大工に頼まないと難しいかも、と言われた。杉山さんが東京で講演のある日は、僕一人で作業して、撮った写真を LINE で送る。
曽我のストックヤードでは、使えそうな古材を一本ずつ草の上に並べて採寸した。この家の什器に転用するためだ。何をもらうかはまだ決めていない。昼は杉山さんがくれた千円で、駅前の町中華に行ってラーメン定食を食べ、また解体に戻った。
僕が出しているのは改修の労働で、受け取っているのは居住だ。契約書はない。杉山さんは朽ちかけた建物に自分の資金を投じて、自分の労働と時間を注ぎ込む。直した場所が人に使われるかどうかは、直してみなければ分からない。最初のリスクは全部、杉山さんが引き受けている。
国府津の通りを歩くと、杉山さんが直した建物と、まだ誰も手をつけていない空き家が、隣り合っている。同じ通りに、動いている場所と止まっている場所がある。外壁の色が違う。窓の明るさが違う。